近大総監督 松田博明  ”Talk”and Talk 泣き笑い指導者論(2)


悲願の関西六大学昇格、そして大学日本一へ初挑戦
今でこそ、関西学生リーグの雄として君臨する近畿大学だが、昭和36年までは地方連盟の隠れた強豪にすぎなかった。関西六大学昇格を果たすまでの長く険しい道のり、そして昇格後、今度は全国の頂点を目指す戦いの日々−。近大野球部の歩みは松田博明総監督とともにあった。
白熱の会議は”議長裁決”でついに決着、関六入りの道開かれる
「関西大学野球連合」創設前夜の話を続けます。
 この連合は関西六大学、近畿、阪神、京滋の4大学リーグを翼下に収め、リーグ戦が終了したあと、近畿、阪神、京滋の3大学リーグ優勝校によって、3リーグのチャンピオンを決め、そのチャンピオンが関西六大学リーグ最下位校に挑戦、チャレンジャーが勝てば関西六大学入り。敗者は、別リーグにという方式です。
 これに関大がまず賛成。やがて同大、立命大も賛成したのですが、関学と京大、神戸大は終始一貫、大反対でした。
 昭和37年春、関西六大学は「関西大学野球連合」の創設について評決をとることになり、私はこの会議の行方をかたずをのんで見守っていました。会議は非常に緊迫したムードの中で行われたと伝えられていますが、まさにその通りだったようで、関学、京大、神戸大は真っ向から反対。会議は延々と続き、ついに議長裁決になりました。
 議長は立命大から選出されていました。議長は賛成に。こうして4対3で、なんとか「関西大学野球連合」は、ここに誕生。関西大学野球界にとって、それは一大革命となりました。
 この年の春のリーグ戦は、4大学リーグとも、それまでには見られなっかた熱のこもった試合が展開されました。関西六大学リーグの方では最下位にだけはなるまいと、猛練習を続けたからでしょうし、近畿、阪神、京滋の各大学リーグも関西六大学入りを目指してそれぞれ従来にない白熱した試合が続きました。近畿リーグの近大もそうです。
 「近畿リーグで勝ち、3大学優勝校の対決ににも勝って"関六”との入れ替え戦に」これが私が監督を務める近大野球部の”合言葉”でした。近大だけではありません。各大学も同じ思いだったのです。
 近大は春のリーグ戦で優勝しました。関西六大学の方は神戸大が最下位に終わりました。
 3大学リーグの春の覇者による入れ替え戦への”挑戦者決定戦”でも近大は勝ったのです。山を越え、谷を渡り、いばらの道を克服してきた近大野球部と神戸大との入れ替え戦は、私にとってそれこそ命がけの戦いです。
 「神戸大に勝てば近大の歴史が変わる。いや、関西の大学野球の歴史も。頑張ってください」
 卒業していった教え子たちは、口々にそういって激励にきました。
 関西六大学で伝統を誇る神戸大との入れ替え戦は西宮球場で行われました。当時、関西六大学のリーグ戦は、この球場を使用していたからです。先に2勝した方が勝者となる入れ替え戦---。なんとしても先勝しなければなりません。
 ところが第1戦、近大は苦戦も苦戦。大苦戦です。0対2のスコアで神戸大に押され、ベンチには次第に敗戦の色が濃くなってきました。だが、天は我を見捨てはしなかったのです。






昭和38年、関西六大学最下位・神戸大との入れ替え戦に勝ち”昇格”を果たした近大ナイン
昭和37年春、入れ替え戦で神戸大を破って昇格果たす
 近大に思いがけない好機が到来しました。いわゆる“千載一遇の好機”。私は打者の大熊忠義君にバントを命じました。現在、オリックスで打撃コーチをしているあの大熊君です。彼は、巧みにバントを敢行しました。つぎの瞬間、バントの球をつかんだ野手がなんと大悪投。これをきっかけに、神戸大に逆転勝ちをしました。
 この第一戦が最大のヤマ場。それを逆転勝ちで乗り切った近大は、続く第
2戦も手中にいれて、ついに関西六大学入りを果たしたのです。スタンドで声援をしてくれた応援団、それに一般学生やOBたちは、応援歌を大合唱。感泣しているOBもずいぶんとおりました。
 「これでいい舞台に立てる。今後は、いつの日になるかわからないが関西六大学の覇者になって、神宮球場で王者に・・・」私の夢は大きく膨らんだのです。 「監督、苦労されたかいがありましたね。“関六”入りの感想を聞かせてください」
 「関西大学野球連合」の創設に際して、家から莫大な“軍資金”を持ち出し、創設工作をしていたのを知っているマスコミ関係者のインタビューに、ことさら平静を装いました。時の流れとはいえ、伝統のある関西六大学の一翼を担ってきた神戸大野球部員やOBの胸中を察するに余りあったからでした。
 関西六大学入りした近大に大きな変化が起こったのは、その翌年。新入部員がなんと
90人にも膨れ上がったのです。それも素質のある者が数え切れないくらい入ってきたのです。
 「監督、近畿リーグと関西六大学の看板の差ですね」OBがそういうことをいったのを思い出します。たしかに、その通りで、近畿リーグ時代は、私が勧誘にいっても来てくれなかったのが、関西六大学に入ると、関東の大学から誘われていた高校生が、関東を蹴って近大に来てくれるのです。奈良の生駒山麓にある専用球場には1年生部員がひしめいたものです。
 この球場が出来たのは、実にひょんなことからでした。近大が日本大学野球連盟の結成記念大会で優勝したことがありました。投手が平安から来た西村省三君で、彼は後に南海(現ダイエー)に入りましたが、この西村君らで優勝したとき、総長が大変喜んでくれたのです。
 「松田君、優勝のお祝いに私は金の腕時計をプレゼントしようと考えているが・・・」
 「総長、時計よりも欲しいものがあります」
 「その欲しいものとは?」
 「はい。それはグラウンドです。グラウンドがほしいのです」





昭和38年、近大の主力メンバー
(左から米田、平岡、大熊、道田、藤本)
生駒山麓のグラウンドは90人の新入部員であふれ返った
 私は総長に臆面もなく言いました。すると、総長はグラウンド用地について、あれこれと質問されました。「グラウンドにぴったりの用地があります。アテはあります」
 グラウンドが欲しい一念から、私は総長にデタラメを言ったのです。用地さえあれば、それを買ってやると言われた私は、近鉄で名ラガーだった友人のところへ飛んで行って相談しました。
 「生駒山麓に、グラウンドにできそうな土地がある。戦時中に明星商(現明星)がグライダーを飛ばすための土地だったのを近鉄が購入して、そのままにしてある」
 この話に私は飛びついたのです。なにしろ、近大野球部は、専用球場がなく、興国高校前の広場や、長居公園の軟式野球場、さらに八尾市の山本球場などを転々として練習していたのです。
 そうそう、当時は近鉄バッファローズの二軍も山本球場で練習をしていたし、時には一軍もここで練習。近大が先に使い、毎日夕方は近鉄という取り決めをしていたのです。毎日が移動練習ですから生駒山麓に用地があると聞かされたときは、これぞ“頼みの綱”とばかり、さっそく見に行ったのです。
 グライダーの滑走路はイモ畑になっていました。整地されていない所がずいぶんとあって、その向こうは山です。が、なんとか専用球場にできると確信して、総長に伝え、大学の方で購入が決定しました。
3万坪(約10万平方b)の価格が800万円。それを年間100万円ずつ8年間で支払うという条件でした。現在でもあの日の喜びは忘れられませんね。私は米軍の中古のブルトーザーを買い、それを運転してグラウンド造りにあたりました。野球部員は早朝からモッコをかつぎ、土運びです。毎日がこうですから、練習などは論外です。
 明けても暮れても日がな一日中、整地作業ですから部員間で不満が渦巻きました。その渦がますます拡大して、ついに“監督ボイコット”に発展したのです。 「毎日、こんな事ばかりさせて、ひとつも練習をやらせてくれないとは。こんな監督の下でやっていけない」
 そういう理由で、私をボイコットしようとしたのです。これが総長の耳に入ったようです。私も総長に相談しました。
 「そんな部員は退部してもらって結構。やめてもらってはどうか。チームワークを乱す者がいてはいけない。」
 総長の決断によって、私も決心。野球部にとっていてもらわなければ困るのを覚悟の上で、クリーン・アップ・トリオの選手を退部させました。それは断腸の思いでした。
 専用球場が完成するのに
3年かかりました。野球場開きは昭和35年。このセレモニーには日本高野連の佐伯達夫氏(故人)が心よく出席してくださって、激励を受けたことがつい昨日のことのように思い出されます。
 この専用球場は、関西六大学入りが決まって見ると、入部希望者が続々、
90人もの新人部員であふれ返ったのです。





徐々に近大は全国区にのし上がる。昭和30年代には韓国遠征も行った。(左が松田氏、右は現韓国プロ野球ピングレ監督・金永徳氏)
延々40分間の中断で全国制覇の野望は打ち砕かれる
 昭和41年春のリーグ戦で近大は優勝しました。関西六大学に入ったのが37年秋のリーグ戦ですから8シーズン目でつかんだ初優勝でした。“打倒東京六大学”に目標をしぼり、これを旗印にしてきた近大にとって、それまでにない強力なチーム。投手は松山商出身の山下律夫君。山下君はドラフト制度2年目の昭和41年に年2回のドラフトがありました。その2回目の1位で大洋(現横浜)に指名されて入団。大洋からクラウン・西武、南海の3球団で16年で通算103勝を挙げた投手です。それに有藤通世君(のち道世)、藤原満君がいました。有藤君はロッテの主砲から監督に。藤原君は現在ダイエーのコーチ。
 このときのメンバーは、社会人野球と試合をしても負けることはなく、現在でも近大史上最強だと確信しているのです。このチームでなら王者になれる、と大学野球選手権に臨んだわけです。それは天下取りの野望に燃えての東上でした。「このチームで関東勢に負けるはずはない。関東なにするものぞ!」
 そんな気持ちでした。そして、大会が開幕すると、思惑通りに勝ち進み、決勝で日大と顔を合わせたのです。
 試合は近大が
20のスコアで優勢に進めていました。前半を終わってリードしているのですから、あと一押し。
 ところが
6回を終わったところで雨が降り出し、それが相当強くなって中断。この中断が10分、20分と過ぎ、30分が経過しました。私は当然、再試合を予想しました。決勝戦ですからコールドゲームはありませんから。どうみても翌日、再試合です。
 それなのに、まだ待機。再試合の気配すらもなく、なんと中断から
40分後に試合再開。その時、いやな予感がしたものです。
 その予感が的中してしまったのです。外野手が打球を追いかけた際、軟弱なグラウンドに足を取られて転倒。これが原因となって逆転負け。日大に日本一をさらわれてしまいました。この場面は、現在もなお私の脳裏に鮮明に残っています。
 「雨による
40分の中断がなかったら。再試合になっていたら・・・。なぜ40分間も引き延ばさなければならなかったのか」
 あれこれ考えると、大阪への帰途、悔しさが募りましてね。無念で、無念でたまりませんでした。
 しかし、私のこれまでの“野球人生”を振り返ってみますと、あの昭和
41年の大学選手権で、もしも優勝していたとしたら、45年間もユニフォームを着てはいなかったでしょう。
 “大願成就”ということで、後継者にバトンタッチをしていたかも知れません。

 40
分間の中断による雨中戦における無念の敗戦が、私の闘志をかきたてる原因になって、大きな糧となったのですから。「なんだ坂、こんな坂」という気持ちで、自分自身を奮い立たせたのです。





有藤通世三塁手(のちロッテ)らの活躍で昭和41年は全日本大学選手権の決勝まで進出、惜しくも日大に敗れる。

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