近大総監督 松田博明  ”Talk”and Talk 泣き笑い指導者論(1)


45年に及ぶ監督人生を終えて忘れ難い思い出の数々
関西学生野球界の”ドン”といわれているのが、この人。近大の松田博明総監督。
今春の関西学生リーグ戦を前に45年間に及ぶ指揮官生活にピリオドを打った。この”ドン”の夢と野球の道は波乱に満ちたものだった。
これからの私の仕事はベトナムに野球を普及させること
 「総監督、45年間もベンチにいた人がユニフォームを脱いでベンチに入らないなんて・・・寂しくはないですか」最近、私はこういうことをよく聞かれます。「いやあ、ちっとも寂しくはありませんよ。まだまだやらなければならないことがありますからねぇ。それにベンチから去ったとはいえ、総監督であることには変わりはないんだから・・・」そう言いますと、決まって次の質問がでます。
 「そのやらなければならないことって何ですか」「当面の目標はベトナムに野球を広めることです。この国は、まだ野球をやっていませんから」
 すると、たいていの人は、ぼう然とした表情で、私を見るのです。私は、ひょんなことから俳優の杉良太郎さんが理事長を努めている「ベトナム文化交流協会」のメンバーになりまして理事をしております。この国は、まだ野球はやってはおりません。ベトナムだけでなく、アジアで野球をやっていない国はずいぶんとあります。だからIBA(国際野球連盟)に加盟している国はアジアでわずか9カ国というありさま。私たちアマ野球にたずさわる者にとって、これは非常に残念なことです。そこで「ベトナム文化交流会」のメンバーの一人として、ベトナムに野球を広めようと思っているわけです。
 日本野球連盟の山本英一郎会長代行にも相談いたしました。「松田さん、それは素晴らしいことです。連盟も積極的に後押しをしましょう」こういうことになって、私はベトナムにまず軟式野球の普及をすることにしました。
 なぜ、軟式野球かといえば、いきなり硬式用を使うと、ケガをするからです。ボールメーカーに趣旨を説明しまして協力を求めましたところ、中古の軟式用球を200ダースほど、寄付していただけることになりました。これに野球用具を加えてハノイを中心に野球の普及をはじめるのですが、この事業にベトナムの体育情報相は大賛成、「野球を大学の体育正課にする」と約束していただきました。
 ハノイには私の教え子が企業の駐在員でおりますので指導を依頼しますが、今秋には私もベトナムへ行って指導しようと計画しています。そしてベトナムからも野球に関心を持っている人たちを日本に招いて野球の勉強をしてもらう予定にしているのです。だから、45年間に及んだベンチ生活にピリオドを打ったとはいえ、少しも寂しくはありませんし、相変わらず、多忙な日々が続くのではないでしょうか。むしろ、少年の日から野球をしてきた私にとって恩返しの一つになるのではとさえ思っている次第です。






数々の苦難を超えながら、監督生活は45年にも及んだ
偽ウイスキーや偽せっけんを売って資金を調達
 私は小学校のころ、父親の仕事の関係で満州(現中国東北部)の天津市に住んでおりました。中学は天津商です。この天津商は昭和13,14年と2年連続、夏の甲子園大会に出場した商業高校。13年は朝鮮代表の仁川商に、14年は兵庫代表の関学中に1回戦で負けてしまいました。仁川商には2対3。関学中にはなんと8対22の惨敗です。
 当時、私は試合には出場できませんでしたが、ベンチには入っておりませんでした。甲子園大会へ行くのに汽船で5日間。負ければ、その翌日からまた5日もかけて帰るという状態でした。天津商の野球部員は商社マンの息子とか大企業の駐在員の子息ばかりでした。
 日本は当時”支那事変”と呼ばれていた日中戦争の真っただ中。そのうえ、戦雲がさらにたち込め、軍靴の足音が一段と高くなっておりました。当時の若者がそうであったように、私も海軍少年飛行兵に。そして終戦---。
 戦後は、日大に入ったのですが、ここには現ダイエー監督の根本睦夫さんらがおりました。私は遊撃手だったのですが、日大を退学しまして、日大大阪専門学校へ。この専門学校が近大の前身です。学生でありながら私は野球部の監督をしました。いわゆる”学生監督”です。
 野球部員のほぼ全員が私と同じ軍隊帰りでした。監督である私の指導に反発する者がずいぶんといて、そういう部員と本気で取っ組み合いをしたこともありました。
 このころは、学校から野球部に対して一銭の金も出ません。そこで、野球用具を購入するために、現在では想像もできないようなことをしました。実家が酒屋だった関係でスコッチのビンがごろごろしているのを見つけ、これで部費稼ぎをしようと思いついたのです。
 エチルアルコールを買い、さらに部員を大阪中央市場にやらせてほうってある腐ったミカンをリュックサックに詰めて持って帰らせました。その皮をむいて、私の家の庭に大きな釜をすえ、その釜にミカンの皮を入れ、水を加えて煮ると、黄色い液体になります。この液体とエチルアルコールを混合してスコッチのビンに入れ、ウイスキーといって売るわけです。この”偽ウイスキー”が飛ぶように売れました。それで用具を購入した思い出があります。
 後に近大工学部になる理工科大の学生にせっけんの作り方を教えてもらい”偽せっけん”をつくって部員と一緒に売ったこともありました。クジラの脂を主原料としたものですが、これもつくる片っ端から売れました。が、クレームがついたので製造を中止しました。
 「あのせっけん、日のあたるところに置いていたらとけてしもうた。いんちきだ」。こういうわけです。
 そうそう、米国製の用具を部員に使わせてやろうと、その費用をひねり出すために、私はパチンコ屋のにわかクギ師になったこともありました。
 大阪の天満という町でパチンコ台を製造している店がありまして、そこでクギ打ちのアルバイトをしてボール代をひねり出そうと考えたのです。クギの調整方法を覚え、この店が経営しているパチンコ店で”にわかクギ師”をやって、ボール代を稼ぎました。






学校からの援助が全くない時代、自ら資金集めに奔走して野球部を率いていた
近大の監督を務めながら興国高校の指導もして甲子園出場
 いんちきのウイスキー、せっけん、クギ師・・・・・。なぜ、そこまでしてと思われるかもしれませんが、当時は学生数が信じられないくらい少なく、部費を支出するだけの余裕はなかったのです。それと、なんとかして野球部を強くしなければという私の強い気持ちがそこまでさせたのです。とにかく、一生懸命、無我夢中だったのでした。
 食わんがために米軍とも試合をよくやりました。試合をすれば食事にありつけるからです。そこで兵庫・伊丹市の伊丹駐屯地に試合を申し入れて何度か試合をしたことがあります。ある時の試合で、この駐屯隊に”ヤンキー・クリッパー”といわれたあのジョー・ディマジオが来ていたのにはびっくりしたものです。
 試合の後は主目的の食事。戦後の貧しい時代なのに、ここは別天地。ありとあらゆる物がありました。それが自由に食べられるのですから部員は感謝感激。その食事中のことです。一緒に食事をしていた米軍の軍人が大笑いしているのです。ある部員を指さして---。 その部員はアイスクリームをなんとパンに塗って食べていたのでした。バターと勘違いしていたのです。彼らはアイスクリームを食べたことがなかったのでした。
 学制改革によって各地の専門学校が新制大学になったのは昭和24年4月。その前年の12月に、近畿リーグの創立を計画しまして、私はその実現に走り回りました。これがようやく実現して、当時、高野連の副会長をしておられた佐伯達夫さんに会長をお願いしました。私の父親が佐伯さんをよく存じていたため、話はトントン拍子に進んだのです。
 その一方で、私は大阪の興国商(現興国高)の監督もやっておりました。学校側の強い要望に断り切れず、大学と高校の2つの野球部を教えていたのです。
 大学の練習が早く終わるので、数人の部員を引き連れて興国商へ行って教えるわけです。「練習が終わったら腹いっぱい食べさせてやるから」と言い含めて部員を連れて行くのです。私は興国高から一銭ももらってはいませんから、すべて自腹でしたことです。
 この興国商が昭和31年春のセンバツに甲子園初出場することになったのですが、私は大学チームを率いて神宮球場の日本大学野球連盟の結成記念大会に出場しなければなりませんでした。そこで思案した末、興国商OBの笠松実さん(阪急−広島)に依頼して指揮を執ってもらいました。
 この翌年もまた興国商は春の甲子園大会に2年連続出場です。前年は笠松さんに交代してもらいましたが、1度ならず2度もそういうことをするわけにはまいりません。考え抜いた末、近大出身で当時、社会人野球でプレーしていた村井保雄君に神宮球場の連盟結成記念大会に近大監督として出場してもらうことを決め、私がセンバツのベンチに入ったのです。





昭和32年春は、近大監督の傍ら、興国商を率いてセンバツに出場した。(久留米商に初戦敗退も、鈴木一塁手が大会1号本塁打)
「関西大学野球連合」の実現のためなら身上をつぶしてもいい
 このことは、大学側は知りませんでした。ところが総長がセンバツのラジオ中継を聴いておりましてばれてしまいました。
「興国商の指揮をとるのは近大の松田博明監督・・・」
アナウンサーがこういうことをいっていたのを総長が耳にしたからでした。
 戦前はともかく、戦後の甲子園大会で、大学と高校の監督をかけもちして甲子園のベンチに入ったのは私が最初で最後でしょう。
 この甲子園大会を最後に私は興国商の監督を退き、同校の教師となった村井君が後任となったわけです。
 そして私は近大監督一筋となったのです。近大は近畿リーグに加盟中、28回のリーグ戦で27回優勝しました。後の1回は大工大です。
 27回も優勝しながら神宮球場の全国舞台にたちますと勝てません。いってみれば近畿という井の中のかわずでした。”なんとか全国の強豪になりたい。それにはどうすればいいのか”私は私なりにいろいろと考えていたところ、関関同立の私学4校と京大、神戸大の国立2校で編成している関西六大学リーグが入場者が非常に少なく、運営面で苦しんでいるという話を耳にしたのです。
 関西には関西六大学リーグ、近畿リーグ、それに阪神リーグ、京滋リーグがありました。これらの大学リーグを統合して「関西大学野球連合」をつくり、近畿、阪神、京滋の各リーグ優勝校が関西六大学の最下位と入れ替え戦をしてはどうかという案が私の耳に入ったのです。「これが実現するなら、私は身上をつぶしてもいい」
そこまで思い詰めて行動しました。各大学野球関係者を説得するために会合費という資金が必要だったからです。
 こういう”軍資金”というか会合費は大学側からは出ません。そこで家の金の持ち出しをすることになったのですが、羽がはえたように金が飛んでいくのにさっぱり成果はありません。関西六大学側で「関西大学野球連合」に賛成をしてくれたのはなんと関大だけ。
 そのうちにボツボツと賛成してくれる大学が現われましたが、今度は私のタマ(資金)が切れかかりました。「ああ、私の苦労もこれで水泡に帰したか。うたかたの夢か」
 こんな思いをしたものものです。会合費にそれほど金を使いました。それもこれも関西の大学野球の発展と近大のためだけを考えての行動でしたが、私の親類にはそうと受け取られなかったようで、私を”野球道楽”のように思っていたようです。
 関大、立命、同大の3大学は賛成。関学、京大、神大は大反対。こういう状態が続きました。





昭和30年代、近畿リーグでは無敵を誇ったが,全国大会ではなかなか勝てなかった。
(神宮球場の大学選手権に出場した昭和34年の近大ナイン)