近大総監督 松田博明  ”Talk”and Talk 泣き笑い指導者論(5)


日本とともにアジアの野球をさらに発展させて行きたい
昭和41年、近大野球部を引き連れて初めて韓国に遠征して以来、陰に日なたに、松田氏は韓国の野球をバックアップしてきた。”アジアの国々すべてが世界のトップレベルになるように”・・・との視点から行動を起こし、ユニフォームを脱いだ今もその努力は惜しまない。ベトナムを足掛かりに”アジア野球強化の旅”を予定する松田氏。その情熱はいささかも衰えることを知らない。
韓国球界との親善、技術向上に尽力し政府から表彰を受ける
 日本に最も近い外国といえば韓国。この国に私が初めて行ったのが昭和40年でした。
 「野球を通じて日韓親善を。そして日本と韓国のアマ野球がお互いに技術の向上を目指そう」
 これが韓国へ渡った目的でした。私はアマ野球界を統括している「大韓野球協会」側と話し合いをしました。
 「渡航費や滞在費などの心配はしないでもらいたい。すべて私の方で負担しますから」
 そういいますと、話はトントン拍子に進んで、この計画は実現。翌年の昭和41年に近大野球部を連れて訪韓しました。この費用は全額、私が負担。出発に際してバットやボールをどっさりと持って行きました。プレゼントするためです。
 現在でこそ韓国の高校野球も大学野球も日本と互角かそれ以上の実力を備えていますが、当時は発展途上への入り口といったところ。大学チームと試合をするのですが、毎試合ワンサイドで試合になりません。
 そこで実業団野球と呼ばれている社会人野球と対戦してもまた同様。当時、今シーズンまでプロ野球のピングレ球団で監督を務めていた金永徳氏(日本名、金彦仕重)が率いる韓一銀行とも戦いましたが、これも大勝でした。
 金永徳氏は神奈川県の逗子開成高から南海(現ダイエー)で投手として活躍した人ですが、近大野球部が韓国に滞在中、毎日のように私のところへやってきて、指導方法から作戦に至るまで質問していました。
 この第一回の訪韓で近大野球部は負けなし。引き分けが1試合。それは大邱市軍隊チームと戦った時でした。実業団に「尚武」という軍隊のチームがありますが、このチームではなく、大邱市に空軍基地があることから、基地のチームではなかったかと思います。ともかく全勝1分けで帰国しました。
 近大野球部の訪韓は1年おき。訪韓した翌年は韓国の大学チームを招くという約束をしていました。このときも渡航費から滞在費まで、私が負担しました。
 こういうことをずっと続けるものだから大学で野球を指導した教え子たちは、あきれていました。
 「オヤジ、聞くところによればゴルフ会員権を売ったというじゃないですか」
 「韓国の野球界に、そんなに金を使ってどうするんですか。野球道楽もこのへんで・・・・」
 真剣に言った卒業生もずいぶんとおりました。また、ある卒業生はこう言いました。
 「オヤジ、韓国遠征した時、来年は強くなって日本へ来なさいと言って100万円も渡してきたというのは本当ですか。来日したときに渡せばいいのに・・・」
 しかし、昭和40年に打ち合わせのため訪韓した際、当時の大学野球の責任者であった李八官氏(故人)と交わした“男の約束”です。ともかく、韓国の野球が発展するために私は精いっぱいのことをしました。
 日本から韓国に審判員を連れていって、審判講習会を開いたこともありました。毎年、12月になると、実業団、大学の監督を12〜13人ほど私が金を持ち出して招き、近大野球部寮に入れて冬期トレーニングのやり方を教えました。
 「韓国の野球がレベルアップをしたのは松田さんのおかげ。われわれの恩人です」
 そういう理由で政府から表彰を受けたこともありました。が、私は韓国政府から表彰されたいがためにしたのではありません。野球を通じての日韓親善。さらに、お互いのレベル向上という大目標があったからです。






金永徳氏(写真右)らを通じて、韓国球界に果たした松田氏(同左)の貢献は大きい
次々と韓国アマ球界の知人がプロ入り・・・惜しまれる”人材流出”
 近大野球部が訪韓すると、どこでもスタンドは大入りでした。ウイークデーなのに超満員なのはうれしかったですよ。
 ところが1982年(昭和57年)に韓国プロ野球が誕生してからというもの、実業団のリーグ戦にはじまり、大学野球も高校野球もスタンドはガラガラです。それが私には信じられないのです。アマ野球あってのプロ野球なのに、スタンドは閑散としているそうです。
 日韓野球の交流と発展に尽くされた韓国アマ野球界の知人たちは、つぎつぎに世を去ってしまいました。ソウルの空港へ私や近大野球部を出迎えにやってきた知人の一人は自宅に帰った直後、亡くなりました
 「今晩はゆっくりと野球談義をしよう。まだ時間があるので一度、家に帰ってくるから。野球の指導方法をたっぷりと聞かせてほしい」
 そう言って帰った知人の急死。韓国の野球を語るたびに、ひたむきな野球人だった知人が脳裏に浮かんでくるのです。
 こうして韓国野球の発展に尽くした知人は、ほとんどいなくなってしまい、大学野球の往来はなくなりましたが、韓国の指導者は、その後も近大野球部にやってきました。
 今シーズン、韓国プロ野球の公式戦で4位になったLGツインズというソウル市を本拠地にしている球団があります。この球団で昨年から監督をしている李広煥氏は、近大野球部で長い期間、練習方法を勉強し、生駒市の寮に寝泊りし、ここを起点にしてプロ野球の試合や、各球団のトレーニング方法を勉強しました。そしてLGツインズの監督に迎えられたのです。
 他にもプロ野球のコーチになった人もいます。
 「プロのコーチになるよりもアマ野球のために貢献してはどうか。プロという世界よりも、もっと広い舞台が待っているのだから。韓国のアマ野球界のためにも・・・・」
 こんな助言をしたのですが、プロ野球へ進んだのです。断っておきますが、私は決してプロ嫌いでありません。しかし、アマ野球にいてもらわなければならない人に、プロに行ってしまわれたら、それが“頭脳の流失”。アマにとっては大変な損失になるのですが、だれもが生活をプロに求めているのですから仕方がありませんでした。
 しかし、考えてみれば韓国のアマ野球はすばらしい成長をしたものです。それを裏付けるように日本高校選抜チームが韓国へ行っても勝つのに四苦八苦しているし、ナショナル・チームは全員が大学生。それでいて、あそこまで戦えるのですから、日本もしっかりしなければなりません。
 もう一つ日本に近い台湾へ、個人で何度か旅行をして、あちらの野球をつぶさに見ましたが、近大野球部を連れて遠征したのは一度だけ。酒井光次郎投手(現日本ハム)を擁して神宮大会で優勝したあとでした。神宮側が台湾遠征をさせてくださったのですが、私は全勝してやろうと考えておりました。
 それというのも、それまで台湾へ行った大学のチームで全勝した例は一度もないという話を耳にしていたからです。
 「今回の遠征は勝つために行く。神宮の覇者としてのプライドを持って試合をしよう」
 選手たちにそういった話をしました。親善試合は“親睦試合”ではありません。これが私の信念。選手は全力プレーをして全勝しました。台湾の野球人によれば、やはり大学野球チームが台湾にきて全勝で帰るのは近大が最初とのこと。関係者は驚いていました。





私財を投げうっての指導振りは、周囲からしばしば”野球道楽”といわれた。
次はベトナム、中国・・・アジアの野球のレベルアップを願う
 私は地球上で野球をやっている国はたいてい行きました。大半が個人旅行。だから近大の卒業生や知人が“野球道楽”だなんて言うのかもしれません。これらの人たちは、最近、私のことをこう言っているそうです。
 「オヤジは、韓国の野球にのめり込んだと思ったら、今度はベトナムに首を突っ込んでる。ベトナムに野球を持ち込もうとしているそうだ。」
 連載の第一回目で述べましたが、これを読んだ周囲は大変、気をもんでいるようです。
 ベトナムでは野球はしておりません。私はベトナムとの文化交流の団体に入っている関係で、この国に野球のタネをまきたいと考えたのです。
 そこで硬式野球をいきなりさせてケガ人が出るので、軟式野球から指導して、まず野球というボールゲームに親しんでもらおうと、軟式野球のボールメーカーに趣旨を説明しましたところ約200ダースのボールを寄付してくれました。
 ダイエー球団からは中古のユニフォームを驚くほどいただきました。日本野球連盟の山本英一郎副会長は用具を集めてくれました。それをハノイに送ったわけです。
 ハノイには私の相談相手の友人の企業に勤務している元近鉄の木村重雄氏がいる関係で、彼がハノイ大学などで日本から送った用具を使って指導に当たってくれています。
 これとは別にあちらの政府からの許可を得てハノイから青年2人が来日、近大野球部で部員と一緒に練習をします。年末までに近大にいて、それから日本野球連盟によって東京で野球を学ばせてもらうことも決まりました。
 「松田さん、アジアの国々で野球をやっている国は非常に少ない。野球はオリンピックの正式種目。われわれが指導して各国で野球を広めなければ・・・」
 日本野球連盟の山本副会長のこの言葉に私は勇気づけられているわけです。当初、私は11月にベトナムへ行って指導に当たる計画でしたが、ハノイから指導者を目指す青年が来ることもあって、ベトナム訪問は延びそうです。
 ベトナムで野球−。想像しただけでも笑顔になってくるのですが、ハノイから各地方へ広がっていくのには歳月がかかるでしょう。ベトナム政府が「野球を大学体育の正課にする」と言ってくれたことを、何よりも心強く思っている次第です。
 さらに来年、まだ日程は決まってはおりませんが、中国の野球指導者が近大に来て野球部寮に入り、練習方法を勉強することになっています。国際親善、国際交流などといわれますが、私のしていることはアジア諸国の野球が世界のトップレベルになってもらいたいがためのもので、それがひいては日本のレベルアップにつながっていくものと考えています。そういうわけで私は出来うる限りのことをやっているのですが、東アジアに限らず、東南アジアや中東も含めアジアのあらゆる国々が世界選手権、さらにはオリンピック大会の予選などに参加するようになれば、楽しいではありませんか。
 私の野球の旅、アジア野球へ道程は遠いことでしょう。しかし、アジアのアマ野球界をリードしていかなければならない日本の野球界のためにも、なんとしてもたくさんの国々が野球をするようにしなければという夢を描いているのです。
(終わり)













ベトナムの野球の普及計画を目を輝かせながら語る松田氏。
野球人として、まだまだ”現役”である。







近大の海外遠征が多かったのも、松田氏の方針だ。写真はいずれも昭和53年、グアム遠征を行った際のスナップ。

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